五十里にある深い歴史

この五十里ダムには深い歴史があるのでそれではちょっと書いてみよう。


西暦1683年の天和3年9月1日にM6.8の大地震が栃木県の日光や藤原、そして福島県の南会津地方を襲った。 これにより日光御神領と西川村(現日光市栗山)付近にある葛老山が崩壊した。 この山体崩壊で流出した土砂が男鹿川を堰止めたのだ。
ちなみに崩壊した土砂の量は現在の地形から判断して約60万立方メートルと推測されるらしい。
更に折からの降雨により男鹿川の水位は上昇して五十里村や西川地区に住む31軒の村人達は上の大地への避難を余儀なくされた。
この当時は会津西街道(現国道121号)の交通も遮断され、会津西街道を通る通行人は山越えとなったけれど、駄馬の荷は山越えが適わず、にわか仕立て筏で運搬されたらしい。
そしてこの土砂崩落後は90日間で村は湖底に沈み、湖は150日間で満水になった。 湖の水深は一番深いところで約47メートルまで達したとか。
西川村や五十里村に住む人々は天災の影響を受けて窮乏生活を余儀なくされ、下流地域に住む人々にとっても、万一崩壊した土砂が決壊した時のことを心配する住民も当然ながら増えた。
そして五十里湖の出現から24年を経て、福島県会津藩が水抜き工事の着手に乗り出した。 この工事の請負額は4,375両、当時としては破格の金額であったようだ。
この工事は地元村人達の協力もあり順調に工事が進められたが巨大な一枚岩盤に突き当たり、当時の工法では岩盤の上でいもがらを燃やし、その後、水をかけ岩盤を脆くして掘り進むような方法だった為、思うようには捗らずついに工事は中止に。
この工事中止の責任を負い、会津藩の士早川上粂之助と高木六左衛門という武士が責任を取り割腹自殺を遂げてしまった。
ちなみに葛老山崩落地点近くの小高い丘にある布坂山の頂上にはこの藩士の墓と伝えられる小さな祠が今でも祀られているとか。 この伝説から布坂山は腹切山とも呼ばれているらしい。
内容は以上となるけれど、これが五十里湖に纏わる出来事であった。
さて、我々はこの当日最後となる目的地に行くことにしよう。

五十里ダム編は完結。